暴力の背景について語ること

第94回アカデミー賞授賞式で、ウィル・スミス氏が妻のジェイダ・ピンケット・スミス氏を侮辱するジョークを発したホスト役のコメディアン、クリス・ロック氏の顔を叩いたことが世界中の話題になっています。

日本でももちろんそうですが、欧米では身体の不可侵を侵すこうした行為は特にタブーですのでウィル・スミス氏に対する批判が沸き起こりましたし、本人もすぐに謝罪をする事態になっています。

とはいえ、この件を SNS などで追っていて気になったのは、両者のどちらが正しいのか、どちらにどのような言い分があるのかといった「暴力の背景」についての議論が多かったです。

例えばウィル・スミス氏については:

  • 妻を侮辱されたことに怒るのは当然のこと
  • グーで殴らず、あきらかに加減していた
  • ジョークの内容はジェイダ氏が何年も前にカミングアウトしていた病気による身体的特徴についてのもので、特に容認し難い

クリス・ロック氏については:

  • ジェイダが病気であることを知らなかったみたいなので許容範囲内
  • ジョークは脚本家が書いたものかもしれない
  • もともと彼はこういうぎりぎりなネタを使うタイプなのだからしかたない
  • ウィル・スミス氏もジョークで言い返すべきだった

あるいはネタにされた側で関係がないジェイダ・ピンケット・スミス氏について:

  • ジェイダ自身の素行の問題があってネタにされやすい

あるいは「マイノリティとコメディの問題」「文化の違い」といった「背景」を説明することで片方が良い、もう片方が悪いといった論理を組み立てている人が私のFacebookのフレンドにも複数いました。

暴力を説明しても暴力への免責にはならない

私が不思議に思ったのは、上のどれ一つを採用したところで、ウィル・スミス氏の暴力や、クリス・ロック氏の言葉の暴力といってもいい、Hurtful なジョークを免責することにはならないのに、なぜ暴力を説明しようとするのかという点です。

どれだけ説明したところで、手を出した、あるいは口がすべった事実は取り戻せません。ましてや第三者が当事者にかわってその行為を免責することはかえってその暴力を肯定することにつながります。

暴力を受ける前の状態に戻ることが原理的にできない以上、暴力に対する反応はきわめて不公平なものにならなるを得ません。それは謝罪か、許しか、とにかく暴力があったことをそのままにして、その暴力性を無効化するための行為しかないわけです。

世界中には理不尽な暴力や、罵りや、いじめ、イジり、殺意といったものがいくらでもあります。それが起こる前に戻れない以上、その暴力にはこうした意味があったのだと説明するのは不毛の上塗りにしか思えません。

そういう立場からみると、今回の一件は:

  • WS は叩いたのはいけないので謝罪すべき(すでにしています)
  • CR も侮辱的なジョークを発したのはよくないので謝罪すべき(現時点ではまだしていない)

これ以上のことは言えないし、そこになにか説明を加えること事態が暴力的だとすら思えます。

ウクライナ侵略の情報を横目でみていると、容認される暴力など本来はないはずなのになぜこうしたことになるのかという苦悩に世界が引き裂かれている最中だというのに、アカデミー賞のこの出来事はどこか茶番めいているとため息がでてくるのです。

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2011年アルファブロガー・アワード受賞。ScanSnapアンバサダー。ブログLifehacking.jp管理人。著書に「ライフハック大全」「知的生活の設計」「リストの魔法」(KADOKAWA)など多数。理学博士。